死の準備−『病院で死ぬということ』

自分が死ぬ事を受け入れるためには、それなりに時間が必要なのかもしれない。
この本を読んでいると、人生の最後の瞬間に問題となるのは、「延命措置するの?」ってことや「自分家で?それとも病院で?」「告知してほしい?もしくは身内に告知するべき?」って考えがち。
そんでたぶん、この本をさらっと読んでしまうと、「なんとなく延命措置なし?」「なんとなく自分家?」「なんとなく告知してほしい?」って思っちゃう。でもこの書評を読むと、そりゃ安直でしょうって思える。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~iyatsue/byouindesinu.htm
きっと著者はそんな具体的なところを訴えたいわけじゃないだろう。
人の最後の瞬間に多く立ち会ってきた著者がいいたいのは、「死ぬ準備しとけよー」ってことじゃないか?


アンドレ・マルロー(wikipedia:アンドレ・マルロー)って人は『王道』という著書の中で、「僕が死に方を考えるのは、死ぬためじゃない、生きるためなのだ」という言葉を遺しているそうだ。
これってよく、「メメント・モリwikipedia:メメント・モリ)」といわれる考え方だろう。
もっと砕いた言い方だと、「死ぬ瞬間に後悔しないように」っていうセリフもよく聞く。
これも「死ぬ準備」ってことに近いかもしれない。


でもそんなの難しい。「自分、毎日、死を意識して生きてます。」ってなんだかえらく暗い人だ。
いつ死ぬかなんてわからないわけだし。
神様に「君、明日死ぬ予定だから。ゴメンなぁ。」って言われた時と「君、けっこう長生き。マジマジ。」
って言われた時とは、「死ぬための準備」の仕方は変わってくるよね?たぶん。

日々目標に向かって努力しつづけていれば死ぬ瞬間も満足できるのでは?っていうのもよく聞くけど、
なまじ具体的に目標があるだけに、志半ばで死ぬことになれば、よけい悔しくてたまらないかもしれない。
「このクソ!あと少しだけでいい!うごけ体!」って考えながらは幸せな死に方だろうか。
ちょっとかっこいい気はするけど。


でもやっぱり、「自分いつか死ぬんよね。おぉ〜コワ。ブルブル。」ってだけじゃまずい。
この本はそう感じさせてくれた。「死ぬ準備」ができていないことが、どんなに悲しい事なのか、
「死ぬ準備」ができることが、どれだけ価値のあることなのかが、事例を通して体に染み渡るように教えてくれる。


生まれちゃった以上仕方ない。
死はこっちの都合なんて考えちゃくれない。
死んだ先の事なんてわからない。
ないないだらけで生きてる中で、しっかり準備して死ねるように、
たまに死を意識した時に、「おぉ〜コワ。」よりもう一歩踏み込んで考えよう。
「死の準備に何が必要か」くらいなら、見つけることができるかもしれない。





目次:

  1. ある男の死
  2. 密室
  3. 脅迫
  4. シベリア
  5. 希望
  6. 僕自身のこと
  7. 15分間
  8. パニック
  9. 5月の風の中で
  10. 約束
  11. 「息子へ」
  12. そして、僕はホスピスを目ざす

223ページ
主婦の友社
1990/10刊
ISBN9784079368360

山崎章郎『病院で死ぬということ

病院で死ぬということ

病院で死ぬということ

病院で死ぬということ (文春文庫)

病院で死ぬということ (文春文庫)

<読みたくなった本>
キュプラー・ロス『死ぬ瞬間-死とその過程について-』

死ぬ瞬間―死とその過程について

死ぬ瞬間―死とその過程について

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)

キュプラー・ロス『「死ぬ瞬間」と臨死体験

「死ぬ瞬間」と臨死体験

「死ぬ瞬間」と臨死体験

<参考>
JMM「平らな国デンマーク/子育ての現場から」より「人生の最期をどう迎えるか」
http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/report2_1357.html

<その他情報>
著者講演録
http://www.ne.jp/asahi/baz/bird/sub6yamazaki.htm