善行日と悪行日−『寺田寅彦全集第3巻』

古い本で書評が見当たらないw
でも面白かったのでメモ公開↓


<善行日と悪行日>
「勉強デー」・「節約日」→善行を特別な日とする
「祭り」・「虫送り・盆踊」・「濫費デー」→ハメを外す悪行を特別な日とする

西洋では「エイプリルフール」→日常を常識的に過ごすための「非常識デー」として機能しているのではないか。
危険な崖の上に立っている人を急に引き止めるとかえって危険だという話がある。これと似たことがもし適用するとすれば、濫費に偏してしているものを一日だけ引きもどすのはかえって危険な場合があるかもしれない。後ろに引いた弓を放てば矢は前に飛ぶ。(中略)世の中の人の心は緊張と弛緩の波の上に漂っている。正と負の両極の間に振動している。


この本の刊行は1960年代だが現在にも通じそうな話。
しかし、善行を特別な日とするのが一般的になってきたのなら、過去よりも自由で裕福な良い未来になったと楽観的に捉えるべきか、現代人が日常を善行と受け止められない自信のない社会になったと悲観的に捉えるべきか・・・わからん。


社会観といえば、面白い記事があったので紹介↓
親への無言の復讐:
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20100528/1274995106

上記の記事の中で、

 戦後は、とくに最近になって、日本人は「画一・硬直・一律はよくない」と思い始めた。
 そこで、国を挙げて「個性化・多様化」なるものを推進し始めたのである。そうした動きについて、『日本的モラリズム」のもとでは、「個性化・多様化」が「社会正義」=「世間様のモラル基準」であり、したがって、これに反することは許されない。例えば、『私は個性化・多様化したくない」「他人と同じである方が安心できていい」という「個性」は認められず、そんなことを言う人は「非国民」なのだ。

 ここに「個性化・多様化」を[一律」に推進する――という滑稽で致命的な大矛盾が発生しているのであるが、恐ろしいことに、この致命的矛盾に気づいている日本人はほとんど居ない。つまり、日本人は依然として、[全体のモラル・方向性に反するものは非国民だ」という文化のなかにいるのであり、「個性を主張するようなヤツは非国民だ」という状況が、「個性を主張しないようなヤツは非国民だ」という状況に変わっただけなのだ。


まぁ、一つ言えることは社会観に気をとられてもなんも明確なものは見えてこないということか。