ブランドは確かに存在する

勤めている会社の近くの麺屋が閉店して、新しい店になった。

以前の麺屋はおじいちゃんおばあちゃん達が経営していて、みんなの年齢が高すぎて体力的に続けられないから店を閉めることになったらしい。最近はやりのラーメン屋達とは違い、昔懐かしい味であるとともに、その「記憶による美味さ」に頼らない複雑な味がしていて先鋭的な感じもあった。しかもぜか食後に体が軽い。きっと客の体を考えて、素材や調味料を選んでいたのだろう。


新しい店もおいしかった。ラーメンではないのだが、ランチに幅広いメニューを用意していてしばらくは飽きずに通えそうだ。量も、たくさん食べる自分には嬉しく、決してグルメではない自分もわかるくらい、いいものを使ってそうだと感じた。きっと量とあいまって原価ぎりぎりでやっているんだろうと思う。


現在開店して数カ月ほどたったのだが、客の入りが少なかった。以前のラーメン屋は古い店なのに、ランチ時間帯は常に列を作っていた。なぜこの店は少ないんだろう。掃除は行き届いている。看板もメニューもはっきりわかりやすい。食事も美味い。店員も気持ちいい接客。一つ一つのポイントは非の打ち所が無いように見えた。


きっと「ブランド」がないのだろう。以前の麺屋にあった雰囲気が失われてしまっていた。テレビと客の話し声でウルサイ店内。たばこの煙がユラユラ踊る天井。ちょっと油っぽいテーブル。ヨレヨレになった中途半端に古い漫画雑誌。平気で相席を促す店員のばあちゃん。(相席嫌いじゃないけど気にする人はいるだろう。)あの麺屋は、知らない人ばかりの客達全員がまるで友人のようだった。


長い歴史が作ってきた雰囲気だ。今の店に求めるものではない。しかし、以前の麺屋と同じテーブルで食べていると無性にこみ上げてくるものがある。寂しくなってしまった。もうあのラーメンは食べられない。あの元気なばあちゃんに会えない。あの雰囲気にたまに触れたくなるのだが、もう無いことを実感してしまった。今の店の善意が店全体から伝わるほどさらにそう思えて仕方がなかった。


グッチやヴィトンといったマーケティングとしてのブランドではなく、リアルなブランドが身近に存在していたことを、失われて初めて知った。(もちろん、グッチやヴィトンも、そういう意味のブランドも持っているのだろう。ブランド出身地では特に。)


次の店にもきっと通うだろう。いつかあの店のようなブランドを持つ店になって欲しいと願いながら。