正義は剣ではなく盾として

久々に実家に帰った際、近くの南北に伸びる大通りで自転車の事故があったそうだ。どんな事故だったのかはわからない。


パトカー、警察官が集まっていて、現場検証等なのか、2日にわたってなんだかんだしていたらしい。大きな事故だったことが想像される。


その大通りは、車道両脇の歩道の間に自転車道が舗装されている。端から、歩き、自転車、車、車、自転車、歩き。といった具合だ。


自転車道はギリギリ2台すれ違えるくらいの狭いものだったからか、最近になって車と同じように、それぞれ向かう方向を限定するようになった。以前は南に行こうが北に行こうが、どちらの自転車道を使っても良かったので、すれ違う際には上りも下りもお互いが気を付けていたのだが、方向が限定されるようになって、少し雰囲気が変わってきた。


以前、方向を限定するようになって間もなく、私はその自転車道の上をグイグイ漕いでいた。方向を限定するようになった旨を伝える看板があったが、あまりにも慣れすぎていた私は、何も考えず看板を通過した。


そうすると向こうからおばちゃんが自転車でやってくる。いつものように脇に避けると、向こうは避けない。ど真ん中を走ってくるのだ。なにぶん狭い自転車道。お互いが避けないとぶつかってしまうのだ。


その時ハッと看板を思い出し、このおばちゃんが避ける気がないことを覚った私は、すぐさま自転車道と歩道を分ける緑地に乗り上げ難を逃れた。その時のおばちゃんの怒り半分得意半分の表情は、「私が正しい」という正義に裏打ちされている事は疑いようがなかった。


こんな事があったので、大きな事故があったと聞くと、この件を思い出して心苦しくなった。もしかしたら自分が警察官に囲まれていたかもしれない。たしかにあの時、私が悪かった。ルールを守っていないのは私の方だ。しかし、あの時のおばちゃんが取り得た行動オプションの中で、「そのまま突撃!」が最上の行動だったのだろうか。


この「方向を限定する」というルールはもしかしたら、何かあった時にスムーズに解決させる効果と引換えに、「お互い意識して譲りあう」コミュニケーションを無くし、大事故のリスクを増やしたのかもしれない。私自身は実際に危険なのでこの時からこのルールを守るようになったが、何の合意もなく一方的に決められたことを理由として逆走をやめない人もいるかもしれない。


社会的最善はなかなかわからない。この件も地域の人達が慣れるにしたがって収束していく問題なのかもしれない。ただ、村上春樹の言う、「正論原理主義」のように、「正義」を剣として振り回すようなことをせず、盾として使って欲しい。と、そう思った。


先鋭化する主義と『ファイトクラブ
http://d.hatena.ne.jp/kojitya/20090317/1237282340