「普通」を語ることの意味−『カンバセイション・ピース』

素晴らしい書評は以下↓
保坂和志カンバセイション・ピース』:
http://mindgater.jugem.jp/?eid=84


著者インタビュー↓
http://www.1101.com/hosaka/2003-06-06.html


これといって派手な展開のない小説。淡々と日常が綴られている内容であるため、「退屈」という読後感を持たれる方もいるかもしれない。でもなぜか付箋をたくさんつけてしまった。


著者が上記のインタビューの中で、

日本の会社勤めをしている人たちが、
こんなに本を読まなくて、こんなに
人生のこととか世界のこととかを考えないで、
ただ、会社のことだけをやっていれば
生きていけるかのように思っていることって、
おかしいじゃない。

数学者の藤原正彦さんの話が出てましたよね。
あの人が教養っていうのは、
要らないもののことなんだけど、
「いいものを裏で支えている
 役に立たない部分っていうのが教養なんだ」
というのは、ほんとにそのままのことで。

役に立つものが大事というのは、
理解できるものが大事という考えなんです。
だけど、言えないものも含めて
言おうとしない限り、
言葉としての力をもたないように、
わからないことも含めて
わかろうとしないと、
わかることにならないと思うんですよね。

と語っている。


自分の触れてきた物語を振り返ってみて欲しい。皆特別な能力で派手な展開を乗り越えて行くものばかりではないだろうか。この小説は普通に生きるオッサンが、なんでもない生活を己自身の視点で語るばかりだ。でもその普通がやたらまぶしい。確かに皆自分が自分の人生の主人公で、自分を中心に世界がまわっているのではあるが、そんな自分の集まりが世界なのだ。どんな派手な人生だろうが、地味な人生だろうが、他人から見れば脇役である。


宮崎駿が、例えば『もののけ姫』の中でタタラ場の群集の生活を、例えば『シュナの旅』の中で、農家の村の人々の生活を丁寧に描くように、「普通」の生活をこそ輝かせる物語がなければ、自分の中の派手な物語は自分の中でインフレをおこし、自分の人生と比べて消耗してしまうのではないだろうか。


一個体であることの誇り−『シュナの旅』:
http://d.hatena.ne.jp/kojitya/20100518/1274130673


派手な物語を摂取し続けているうちに地味な人生に対して恐怖感を持ち始めてきたら、この小説を読んでみて欲しい。やさしく輝くような自分の「普通」を取り戻せるかもしれない。

カンバセイション・ピース

カンバセイション・ピース