じいちゃんについてのメモ

母方のじいちゃんはもう亡くなっている。じいちゃんの仕事はざっくり言うと木こりだった。Tシャツにチョッキ着て原宿とかウロウロしてる人じゃなくて、木を切る人。


僕が高校生くらいの頃、じいちゃんはボケた。痴呆だ。一晩に何度も風呂に入ろうとしたり、何度もばあちゃんに同じ事を聞いたりする姿を見て、寂しいやら悲しいやら、泣きたくなる気持ちを飲み込みながらじいちゃんと夏休みを過ごしていた。(毎年夏休みは母方の祖父母の家で過ごしていた。)


ある日、痴呆だろうが容赦のないばあちゃんに怒られ続けているじいちゃんに、何か花を持たせたいと思い、「水鉄砲を作りたいから裏山で竹を切って欲しい」とせがんだ。じいちゃんが一番自信のある事はやはり木や竹などを切る事だと思ったからだ。


じいちゃんは嬉しそうに快諾してくれた。嬉しさと優しさが混じった表情に、僕にまた少し涙を飲んだ。じいちゃんはいつも優しかった。きっと僕が生まれた時もこんな表情で見てくれていたに違いない。


良く手入れされているのか、汚いのに刃の部分だけやたらに湿っぽく光るナタを用意し、「歩く火事」の異名が取れそうなくらい煙の出る蚊取り線香を腰にぶら下げた。準備完了。じいちゃんが積み上げて作った石垣を周って弟と三人で裏山に向かう。


道中、じいちゃんは何度も「何しに行くんだ?」と聞く。僕達は「水鉄砲に使う竹が欲しい」と言う。繰り返すほどに寂しい気持ちに取り憑かれ、声が小さくなる。じいちゃんが手入れをしなくなった裏山は、小さい頃よりも身体が大きくなったのに、昔より歩きにくかった。


竹林に着いた。またもや「何に使うんだ?」と聞くじいちゃん。「水鉄砲。」「ならもっと細いのがいい。」三度目のやりとりで竹が決まる。


「危ないから離れなさい。」僕達は2,3歩離れる。じいちゃんはナタを振りかざす。


「コッ!!」


竹が倒れた。細めのを選んだとは言え、一振りで倒れるとは思わなかった。少しだけ得意げなじいちゃん。本当に頼んで良かった。


じいちゃんは自分の何倍もの長さの竹を一人で担いでスイスイと家路を急ぐ。


「もう自分は高校生だから、竹くらい担げるよ。」と言っても「危ないからダメだ」と言う。たぶんじいちゃんには小学生も高校生も変わらないんだろう。申し訳なく思いながらも甘えてみる事にした。


ユラユラと竹を揺らす、老人とは思えないほど逞しい背中を見てなんとなく誇らしい気持ちがした。


その時、当たり前なんだけど、記憶や気持ちだけがじいちゃんじゃないんだと感じた。優しい笑顔が、研がれたナタや石垣や裏山が、木こりとして培われた硬い筋肉が、僕の記憶がじいちゃんだった。人は生きながら少しずつ拡散していく。


じいちゃんちに着いた。


「この竹何に使うんだ?」


もう寂しくない。


「水鉄砲だってば!(笑)」


「そうかそうか(笑)」