正し過ぎて恐い。−『<対話>のない社会』

素晴らしい書評を二つ↓
『〈対話〉のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの』 中島義道 (PHP新書
http://fuji-san.txt-nifty.com/osusume/2007/01/php_8c17.html

書評「<対話>のない社会」中島義道
http://www.ningengaku.net/library/199803xx-ToyoKeizai.htm


めっちゃザックリと一言でいってしまうならば、「高コンテクスト文化」から「低コンテクスト文化」へシフトすべき!という内容。

(コンテクスト文化についてわからなければ以下のエントリが非常にわかりやすく参考になります。)
高コンテキスト文化と低コンテキスト文化:
http://suto3.mo-blog.jp/nashita/2006/01/post_32bb.html


基本的に絶賛されている書評が多い本書。しかし私には何か違和感のある読後感だった。「世間に毒されている」なんて一刀両断されてしまえば何も言いようがないのだが、なにかしっくりこない。


例えば、本書P111『露地の「掃除」とは落ち葉を残すこと?』の中で、

わが国では、あることを命じられたときも、言葉通りの意味を「相手が何を期待しているのか」という観点からとらえなおしてそれに応ずることが一般に要求される。

として、千利休が息子に「掃除しろ」とだけ言い、息子が掃除の終わりを報告。「まだ充分でない」と言われた息子がさらに完璧に掃除し終えてから、千利休が「ばかもの、露地の掃除はそんなふうにするものではない。」と言って木を揺すって落ち葉を落とした話や、本書P138の軍隊の話、とある本当に原因不明の問題について、上官が下っ端の兵士に対して「たとえ自分がやらなくても『私がやりました』と言って出るくらいの気持ち」を期待して叱り飛ばす話がある。


確かにこういうのは自分も中学高校の部活動で嫌というほどやらされてきたし、実際自分はこういう話が嫌いだ。たぶん世間様と比較してもかなり嫌う方だと思う。


しかし、だからといって著者の意見になんとなく諸手を挙げて賛成しずらいのだ。


今の自分ならちゃんとその時の違和感は言葉にできただろうが、その時は自分の違和感を伝えられずに悶々と過ごし、結局訳のわからない言い訳をして逃げるように部活を辞めたということがあった。


その部活には著者の言うような圧殺する空気があったのは間違いない。しかし、私が顧問の先生と「対話」できなかったのはそれだけではない。語彙力や表現力の無さもある。著者の言う「対話」ができれば、辞めるにしても辞めないにしても、もっと良い結果を得られたのではないかとは思うが、「対話」には前提となるコミュニケーション技能のハードルはけっこう高く、著者のような賢い人間には当然でも、当時の私のようなウマシカにはなかなかに厳しい。


そして今だって私にはうまく表現できずに伝えられない感情や理屈が非常に多い。


著者の言うような社会がくればいいな。と思う部分もあり、そんな社会が実現したらなんだか恐いな。とも思いつつ。


曖昧さのないクッキリした感じが、なんだか正しすぎて恐いのだ。