認識の認識‐『アルジャーノンに花束を』

書評するまでもない超有名作品・名著なのでわざわざ紹介するのもなんなんですが、
↓この記事を読んで、『アルジャーノンに花束を』を思い出したので。
http://anond.hatelabo.jp/20091103121741


アルジャーノンに花束を』の概要は以下で。↓
wikipedia:アルジャーノンに花束を


この物語は単に、「頭が良いことと幸せは別なんだよ」っていう道徳的な話だけでなく、
認識と判断は質や面的なもので、量的な存在ではないということを描いているんではないだろうか。


上記の記事で「距離」として書き手が表現しているものをこそ、次に書き手が疑わなくちゃいけない対象かもしれない。
書き手がバスケやセックスのときに感じた次元を超えた感覚を、量的に先へ進んだ感覚として認識するならば、その一瞬の後に、次の、次の次のと永遠に続く次元の存在に、立ち尽くすことになる。
書き手さん、ここは「距離」そのものを疑ってみたらいかがでしょうか。ベクトルがあるものじゃなく認識の仕方がかわっただけ。って考えてみては。この本でも読みながら。


俺もよくわからんけど。


アルジャーノンに花束を

アルジャーノンに花束を