乙武さんを持ち上げすぎじゃないのか

以下の記事を読んで。↓
勝間和代乙武洋匡の違い(他人は変えられないが、自分は変えられるって話):
http://d.hatena.ne.jp/chrl-ohya/20100905/1283707390


いや、僕も乙武さんの考え方は好きです。実際に、以下の2ちゃんねるについての記事は、自分のプライベートでの人間関係に置き換えて大変参考になりました。(自分の備忘録として残しておきたいのでコピペします。)

誰もが自由に書き込みできる匿名掲示板「2ちゃんねる」において、僕は不思議と愛されているようで、これまでも何百回となく殺されている。だから、今回だって特に驚きはしない。いつものことだから。
 そりゃ、ヘコむ。いい気持ちはしない。その書き込みを見た友だちは、気遣いの言葉をかけてくれる。
 「そんなの気にするなよ」
 「無視するに限るよ」
 彼らの忠告はありがたいけれど、僕はあえて気にするようにしている。せっかくボロクソに書いてもらっているのに、無視するのはもったいないから。
 読者やファンの人から送られてくるメールや手紙は、そのほとんどが僕を誉めそやすものだ。街を歩けば、「いつも観てますよ」「勇気をもらってます」。若い女の子にキャーと言われれば、やっぱり悪い気はしない。仕事先にはスタッフがいて、いつも気を遣ってもらっている。暑くないか。寒くはないか。のどが渇いてはいないか。黙っていても、快適な環境が自然と用意される。
 若くして世に出てしまった僕に強く物が言える人がいないのは、僕にとって大きな不幸だと思っている。僕はそう強い人間ではないから、時折、このまま傲慢な人間になってしまわないだろうかと不安になることがある。そんなとき、僕はパソコンを開き、「お気に入り」のフォルダから「2ちゃんねる」を選び出す。僕を悪く言う人々の書き込みを読む。薬みたいなものかもしれない。それまで持っていた自信や自尊心といったものが一気に崩れ去り、代わりに謙虚な心が入り込む。泣きたくなることもある。でも、それくらいがちょうどいいと思っている。
 彼らの文言は、あまりに心なく、的外れなものが多い。けれども、時に足元を見つめさせてくれるものもある。「あんな文才のないやつが」と書かれれば文章を磨くことに貪欲になれるし、「障害があること以外に何のウリもない」と指摘されればウリを作ろうと必死になれる。
 匿名だからこそ好き勝手に書けるけれど、匿名だからこそ本心が出る。僕をよく思っていない人たちの存在を知り、意見を聞くことで、見たくない自分の姿が見えてくる。そこから目をそらすことの方がよっぽど簡単でラクなことだとはわかっているけれど……。
 名誉毀損をちらつかせながら彼らを黙らせることは、確かにできるのかもしれない。でも、それでは単に彼らの口を閉ざしたに過ぎない。誹謗中傷する人々の気持ちを少しでも変えるよう努力する。それは、僕にとって意味のないことではない。


しかし、どうにもこの記事やに対する反応や、以下の記事「乙武洋匡さんが「24時間テレビ、僕も好きなたぐいの番組ではありません」と番組批判」中の「インターネットユーザーたちの意見」として紹介されている部分を読んでいると、持ち上げられてしかるべき人物だと思いつつ、過剰に好意的な気もしてならない。

乙武洋匡さんが「24時間テレビ、僕も好きなたぐいの番組ではありません」と番組批判:
http://rocketnews24.com/?p=44829


過去障害者施設で働いていたことがあるが、その時に感じたことは、障害の実際的な問題から離れて、聖人化されている部分もあるということ。プラスもマイナスもなく、「ごく普通に」接してもらうことができない苦悩があるように感じられた。障害とはまるで関係ない部分について、下駄を履かせられた扱いをされる事についての危機感は、上記引用部分の2ちゃんねるの話に強く表現されている。


例えば、批判というほどではないが、乙武さんの新刊『だいじょうぶ3組』の発売は2010年9月3日。最近の乙武さん関係のネットでの盛り上がりのタイミングを勘ぐってしまう部分は否定できない。以下の記事に少し詳しめに書いてあるので参考にしてもらいたい。

生きる とはこういうことだということをいいたくて書いている:
http://bestsellerbooks.blog98.fc2.com/blog-entry-414.html


ちなみにマーケティングテクニックを行使することについて、乙武さんの人格云々を批判する気持ちは無い。無いというか乙武さんの人格をそれほど知っているわけではない。たまに目にする言葉に救われるものが多いというだけだ。


自分自身も乙武さんの考え方が好きなだけに、好意的なコメントを残す人たちと同じ気持ちは持っているのだが、だからこそ、乙武さんが望む「足元を見つめさせてくれる」ような意見の無い自分が残念でならない。まるで仏教の言う慢心のごとく「慢心を理解したという慢心」によって悟りが遠くなるように、こういった記事を読んでいると堂々巡りのような複雑な気持ちになる。


バイアスのなるべくない関係をいかに築いていくかは本当に難しい。自分も常々意識していかなければならないと再確認させられた。


だいじょうぶ3組

だいじょうぶ3組