トポフィリア−『ヒデヨシのおもちゃ箱』

素晴らしい書評は以下↓
ヒデヨシのおもちゃ箱(アタゴオルコンプリートブック)感想
http://iroha48.com/a/atagoal/complete.html


私は帰属感というか、生まれ故郷という感覚が薄い。


物心ついた頃からずっと東京の団地で育ってきたためだろうかと考えるがあまりシックリこない。
その生活が嫌いだったわけではないし、むしろ良い思い出がたくさんある。


大学に入った頃、地方から上京し一人暮らしをする友人がたくさんできると、必ず「実家」とか「生まれ」とかそういう言葉をたくさん聞くようになるのだが、その感覚が羨ましかった。自分にはない感覚。友人が「連休に実家に帰るんだ」と口にする時のなんとも言えない優しい安穏とした心持ちを感じると、どんな感覚なんだろうとつい思ってしまう。私にだって帰る家があるというのに。


先日、写真家の今岡昌子氏の『トポフィリア』展へ行ってきた。
トポフィリア−九州力の原像へ」
http://www.nikon-image.com/activity/salon/exhibition/2012/02_ginza.htm#01


この写真展では私の母の故郷である九州の写真が展示されているためだ。この写真展を見ていると不思議と故郷を感じる。でも私の故郷ではない。母の故郷なのだ。


本書の著者は東北の風景を描く事が多い。九州の連なる山と谷で構成された高低差のある力強い風景とは違い、大きく広がる平地にポコポコと山が突き出し、空が大きく広がる、懐の深い優しい風景。これもなぜか故郷を感じる。しかしこれも違う。これは私の父の故郷だ。


トポフィリアとは、「人と、場所(トポス)または環境との間の情緒的な結びつき」のことを意味しているらしい。多くの人はたぶんこの感覚を持っていて、「どこか?」と聞かれた時に即答できる場所があるのだと思う。


私のトポフィリアは東京にあるべきなのに、東京にはなぜか感じない。


本書はイラスト集なのだが私がよく読む漫画の登場人物たちが登場する。この登場人物たちの生活が描かれている漫画なのだが、世界が完全に閉じている。『ONE PIECE』みたいにどこに行き着くのか??みたいな冒険感は全くない。が、まったく閉じきった暗い感覚はない漫画だ。


なぜ暗くないのか。彼らは彼らのトポフィリアと同じ場所で暮らしているからだろうか。


故郷というと「過去の思い出が積み重なっている場所」というイメージを抱きがちだが、もしかすると、「この先のいつか未来に、ここに根を下ろして暮らそう」と思う場所というのが本質なのではないだろうか。


そう思えば何か私が東京にトポフィリアを感じられない事はシックリくる。移り変わり激しい東京の、しかも賃貸住宅。団地という建物のつくりは一戸建てに比べてはるかに「多くの人が一時的に使う住まい」というデザイン。いつか消えてしまいそうな印象の強いこの故郷は、未来を感じない。


私のトポフィリアはどこに生まれるのだろうか。本書の登場人物たちのように未来を感じられる場所が見つかるといいなと思う。