一個体であることの誇り−『シュナの旅』

素晴らしい書評は以下↓
シュナの旅について:
http://www.ghibli-fc.net/fc/syuna/syu_01.html
シュナの旅」と都市生活者の消費文明:
http://nomano.shiwaza.com/tnoma/blog/archives/006570.html
シュナの旅(小休止)(書評は最下部):
http://maruta.be/sandbook/59


1983年に描かれた宮崎駿のマンガ。

本書は一つ目の書評にある通り、

現代の先進国・日本の産業文明と消費文化に対する鋭い風刺

を込めたことは間違いないだろうものの、神人の土地、神人の存在、光輝く月、怪奇な建造物、みどり色の巨人等、難解なものが多い内容です。


この難解な設定は何のメタファーなんだろう。それは2つ目の書評の方と同感でした。2つ目の方は会社・流通としていますが、もう少しざっくりと表現すると、生産される(生産の素材になる)人間関係であるということではないか。
奴隷をやり取りする都市の人々を含めて彼らは、経済を媒介に一つの生き物のようになっています。彼らはパーツであり、一人では生産できません。それは通貨扱いになっている奴隷たちも一緒です。


主人公シュナや、テア、テアを受け入れてくれた村の人々などが、この物語の中で肯定的に語られているのは、生産する関係を持っているということでしょう。決して実り多くなく、変化に乏しい繰り返しの中に生きているが、一人で生産ができる一個体である誇りを持っているように感じました。


生産ができるということ=己の意志を通せるということ=自由である。ということは、端的にシュナが奴隷輸送車を襲ったシーンから明らかです。

「たとえ一生追われる身となっても自由を望む者は出てくれ」

とシュナが言った際に輸送車から出てきたのはテアとその妹だけだった。
そしてその際、シュナがテアにかけた言葉が以下↓

「売り買いによる自由ではなく、剣にかけてあなたの誇りのために戦った。あなたは自由だ。」

あっさりと暴力を肯定する言い方が出てきたのは、暴力そのものよりも、誇りの存在を重視したためだろう。

以下に興味深い記事がある。↓
ナウシカ』や『ガンダム』の「その先の物語」とは何か。:
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20100512/p1


一個体であることの誇りを描くということは善悪二元論を超えた先、さらに、上記リンク先の論旨である

「超人類への進化」という「SF的ヴィジョン」でもなく、「はてしない戦争のくり返し」という「歴史的ヴィジョン」でもない、第三の道

を描くことだと思う。
この議論は「争い=悪」の設定からスタートしている。もちろん現在の私の価値観からは戦争を良しとはできないし、多くの人がそうであろうが、これを普遍の真理とはできない。極論してしまえば特攻隊員ですら、本人の世界については良し悪しを語ることは出来ない。この件は、
「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら:
http://d.hatena.ne.jp/daen0_0/20100503/p1
の話。


第三の道とは何か。その答えとして、良し悪しを超えて、一個体であることの誇りを持って生きるという答えは悪くないと思う。というか、そういうメタ人類的な超鳥瞰的な視点をやめてフォーカスを己に取り戻すことだろう。「はてしない戦争の歴史」もすべて違う時間なのだ。トラルファマドール星人(カート・ヴォネガットスローターハウス5より)から見た世界のように。そういうものだ。


病院で死ぬということ』の最後のお父さんが美しく良い人生だったと傍から見て思うのも、誇りを持って生きたからだろう。きっとシュナが心身喪失状態から蘇ったのも、略奪者となって失った誇りを、麦を作り生産者となって取り戻したことのメタファーだろう。
死の準備−『病院で死ぬということ』:
http://d.hatena.ne.jp/kojitya/20080928/1222570070


自分はいつか一個体であることの誇りを手に入れられるだろうか。今はまだ遠い気がする。


シュナの旅 (アニメージュ文庫)

シュナの旅 (アニメージュ文庫)